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みんなやさしくなあれ

みんなやさしくなあれ


『生きるということは一度しかない。
 リハーサルなんかありはしない。
 たった1度だけである。』

私にこんなすさまじい
教えを教えてくれた1人の若者がいた。


今から7年前の1月21日、
富山県の砺波(となみ)という町で、
ガンで亡くなった井村和清さんである。
彼は医師であったが、
右膝に巣くった
悪性腫瘍の転移を防ぐため、
右脚を切断した。
しかし、その甲斐もなく、
腫瘍は両肺に転移していた。

そして昭和54年1月、
亡くなったのである。
享年31歳であった。

彼は医師であったから、
自分の病状をよく知っていた。
だから彼には明日はなかった。
その彼が遺書を残している。
その遺書は
『ありがとう、みなさん』と題されている。

彼は2人の子供に
「心の優しい、
 思いやりのある子に育ってほしい」
 と書き、

「私は今、熱がある。
 咳きこんで苦しい。
 私はあと、いくらもお前たちの
 そばにいてあげることができない。
 だから、お前たちが倒れても
 手を貸してあげることができない。

 お前たちは倒れても倒れても
 自分の力で立ち上がるんだ。
 お前たちがいつまでも、いつまでも、
 幸せでありますように。

 雪の降る夜に父より」

そしてまた彼は、
こんな遺書も残していた。

「ようやくパパと言えるようになった娘と、
 まだお腹にいる
 ふたりめの子供のことを思うとき、
 胸が砕けそうになります。
 這ってでももう1度と思うのです。

 しかし、これは私の力では、
 どうすることもできない。
 肺への転移を知った時に
 覚悟はしていたものの、
 私の背中は一瞬凍りました。
 その転移巣は
 ひとつやふたつではないのです。
 レントゲン室を出るとき、
 私は決心していました。

 歩けるところまで歩いていこう。

 その日の夕暮れ、
 アパートの駐車場に車を置きながら、
 私は不思議な光景を見ていました。

 世の中がとても明るいのです。

 スーパーへ来る買い物客が輝いてみえる。
 走りまわる子供たちが輝いてみえる。
 犬が、垂れはじめた稲穂が、
 雑草が、電柱が輝いてみえるのです。

 アパートへ戻ってみた妻もまた、
 手をあわせたいほど
 尊くみえました」

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

「郷里へ戻ると父が毎朝、
 近くの神社へ私のために
 参拝してくれていることを知りました。

 友人のひとりは、
 山深い所にある泉の水を汲み、
 長い道程を担いできてくれました。
『これは霊泉の水で、
 どんな病気にでも効くと言われている。
 俺はおまえに
 何もしてやれなくて悲しいので、
 おまえは笑うかもしれないが、
 これを担いできた。』

彼はそう言って、
1斗(18リットル)上もありそうな
量の水を置いてゆきました。

また私が咳きこみ、
苦しそうにしていると、
何も分からぬ娘までが、
私の背中をさすりに来てくれるのです。

みんなが私の荷物を
担ぎあげてくれている。
ありがたいことだと
感謝せずにはいられません。
 
皆さん、どうもありがとう。

這ってでももう1度戻って、
残してきた仕事をしたいと
願う気持ちは強いのですが、
咳)きこむたびに咽喉をふるわせて
出てくる血液を見ていますと、
もはやこれまでか、
との心境にもなります。
どうも、ありがとう。」

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

日一日と悪化する病気に、
もう猶予はできない。
ここまでくれば、
いつ机に向かうことが
できなくなるかもしれない。

とにかく『あとがき』を
書くことにした。

「頼みがあります。
 もし私が死にましたら、
 残るふたりの子供たちを、
 どうかよろしくお願い致します。
 私が自分の命の限界を知ったとき、
 私にはまだ飛鳥ひとりしか
 子供はありませんでした。

 そのとき、私はなんとしても、
 もうひとり子供が
 欲しいと思ったのです。
 それは希望というよりは、
 むしろ祈りのようなものでした。

(中略)

 祈りは通じ、
 ふたりめの子供が
 妻の胎内に宿ったのです。
 妻はこれはあなたの執念の子ね、
 と言って笑いましたが、
 私はどうしても、妻と飛鳥を、
 母ひとり子ひとりに
 したくなかったのです。

 3人が力を合わせれば、
 たとえ私がいなくても、
 生きぬいてゆける。
 妻がもし艱難に
 出逢うことがあっても、
 子供たちふたりが心を合わせれば、
 細い体の妻をきっと助けてくれる。
 そう信じています」

そして、彼の死後、
「誰よりも悲しむであろう父母を
 慰めてやって下さい」と頼み、

「ありがとう、みなさん。
 世の中で死ぬまえに
 これだけ言いたいことを言い、
 それを聞いてもらえる人は
 滅多にいません。
 
 その点、私は幸せです。

 ありがとう、みなさん。
 人の心はいいものですね。
 思いやりと思いやり。
 それらが重なりあう波間に、
 私は幸福に漂い、
 眠りにつこうとしています。

 幸せです。

 ありがとう、みなさん、

 ほんとうに、ありがとう」

1人の若者が
生きることの大事さを
教えてくれた生の記録である。
彼は最後の最後まで、
人間万歳を歌いあげたのである。

最後の最後まで
『ありがとう』をいい続けたのである。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

生きるということは1度しかない。
リハーサルなんかありはしない。
たった1度だけである。

どうか「生きる」ことを
大事にしてほしい。

行徳哲男(日本BE研究所所長)
『致知』1986年7月号
「なぜ燃え続けるのか」より

著作権保護法を遵守し株式会社致知出版社様に掲載の許可を頂いてます。

『致知』最新号のお申込はこちらから
http://www.chichi.co.jp/guide.html
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by noripipi2000 | 2013-11-30 09:14

魅力的な唇のためには、人に優しい言葉を使うこと。
愛らしい瞳のためには、人の素晴らしさを見つけること。
美しい身のこなしのためには、人はひとりで歩めないと認めること。
なぜなら、人は何かに報われる必要があるからです。
くり返し、くり返し、報われることが。
決して何人たりとも見捨ててはなりません。
その気持を忘れず、助けが必要な人と年を重ねるのです。
すると、自分には、ふたつの手があることに気づきます。
ひとつの手は、自分自身を助けるために、
もうひとつの手は、他者を助けるために。

オードリー・ヘップバーン
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by noripipi2000 | 2013-11-30 09:05

一時休憩~

最近まで
数年間続けていたことがあったのだけど
その目的が良いのかどうか
分からなくなったので
一時休憩・・・・

休憩中は
とっても楽でしたが

休憩を終え
やっぱり
日々の積み重ねが実を結んでいたことを
はっきりと目に見ました。

なので
また再開。

戸惑ったときは
なんでも
一時休憩すると
初心に戻れるものです。
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by noripipi2000 | 2013-11-29 18:33

やっぱり猫も好き



今日、近所のS医院に行ったら(小泉元首相そっくりの先生。自分でも認めている)
先生のパソコンのとこに子猫の写真があったので、
「先生、猫、可愛いですねえ」と言ったら、
顔がデレ~っとなって、
「これ、生まれたばっかのうちの猫。猫好き?じゃ、もっと見てえ!」
と机の引き出しから何枚も飼い猫の親子の写真が出てきて、説明が始まりました。看護師さんはずっと笑ってました。
どうやらホントに猫が大好きらしい・・・

なんかお茶目な先生^^(毎度だけど)
PS...6年生がインフル・・・らしい症状でいきましたが、先生が「まだ、流行ってないから違うよ。」と
でも、ねえ~学級閉鎖になってる学校もあるし・・・と言ったのだけど、
大丈夫だよと・・・・正直いまだに半信半疑です。
私がインフルかも・・・と昨日言っていたので弟が担任に言っちゃったもんだから、友達からの連絡寄せ書きには「インフル??お大事にね」と複数の書き込みが^^:・・・
ま、いいかあ~
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by noripipi2000 | 2013-11-28 22:37

生活習慣

数日前
はなまるマーケットで腎臓病の特集をしていて
そこで専門医の方が
「一生懸命頑張っている腎臓をみなさんの生活で潰さないでください」とお願いしてました。

主治医のみつかる診療所では
去年生活習慣が原因で番組内で
問題が発覚し、手術し
元気になったドン小西さんに今度は
新たな問題が・・・・

見ている限り
これまた、
生活が原因ではないかと・・・・・・

1日24時間どう過ごし、どう食すか・・・

ここに因果応報のすべてが含まれているんじゃないかと
思わざるを得なかったです。

薬を飲むより
まず自分の生活を見直したら
万能薬になるかも・・・・
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by noripipi2000 | 2013-11-27 20:56

こちらの記事は
もう一つのブログと重複します。

YOU TUBEで文字だけの動画ですが、
「先生 可能性のない人なんていない」
こちらです)とても感動しました。
原文をみつけましたので掲載します

心を打つ、感動的な実話を紹介致します。

その先生が5年生の担任になった時、
一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

ある時、少年の1年生からの記録が目に留まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。 勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。

間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。
2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
と書かれていた。

3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」

後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、

4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、
深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。
先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。


「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
 分からないところは教えてあげるから」

少年は初めて笑顔を見せた。


それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。


クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、
先生の胸に顔を埋めて叫んだ。

「ああ、お母さんの匂い! きょうはすてきなクリスマスだ」

6年生では先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。
そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」

それから6年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、
 とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」

10年を経て、またカードがきた。
そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた体験があるから
患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。
 あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、 神様のように感じます。
 大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、
 5年生の時に担任してくださった先生です」

そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。

「母の席に座ってください」

と一行、書き添えられていた。
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by noripipi2000 | 2013-11-27 20:49

ベトベトで当然

「小麦粉と水合わせるんだから、ベトベトして当然でしょ~」と
パンレッスンで言われ
と~っても気持ちが楽になりました。

今日の生地は自宅だったら
途中で断念してるだろう、ベトベトで
本当に仕上がるのだろうか?水の量間違えたかしら?とか思いながら
こねてましたが、
私の気持ちが楽になったので
生地もやさし~い生地になったと
思ってます。

宇宙飛行士の訓練じゃないですが
どんなときもあわてないことですよね。
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by noripipi2000 | 2013-11-26 22:50

プレゼント

ある日の幼稚園の演奏会で
演奏会の後に
年中さんが
手作りの首からかけるクリスマスプレゼントを
そして
園からオリジナルのチロルチョコを頂きました。
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年中さんが
一人一人の首にかけてくれて
感動してしまいました

どんな気持ちで
作ってくれたんだろうな~
いろいろと想像して、
思うだけで
胸がキュ~ンとしてしまいます・・・・

本当にありがとう。
大切にします
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by noripipi2000 | 2013-11-25 22:58

過保護にならず

文化祭の反省会で
カルメ焼きをやった部が
数人の子が「あちち!」状態で触ってしまったので
来年からは気を付けたいと話したところ

実行委員から
それくらいは生きていく知恵で良いんじゃないでしょうか?
ちょっと触ったくらいだし、
完璧に・・・となったらやらないほうが良いんじゃないですか?と・・・・

私もそう思います。
安全には気を付けながらやっていたわけだし、
なんにもないなんて
それじゃ
学習にならないですしね。

いろんな経験をするこは大切ですなあ。
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by noripipi2000 | 2013-11-24 22:39

こちらから

原文はこちら


<一般の部> 厚生労働大臣賞
「父が主役の結婚式」



秋田 久美(千葉・会社員)


 「娘さんの結婚式を病院で開かせてもらえませんか?」それは当時父が入院していた病院の看護師さんからの申し出でした。

 糖尿病性腎症のため人工透析をしていた父が二〇一〇年六月、外出中に突然右足かかとから大量出血し、緊急入院となりました。知らないうちに壊疽になっていたのです。数日後、病院の先生から過酷な現実を伝えられました。「このままだと命に関わる危険があるので、明日右足を切断します」。一人っ子で七年前に母を亡くしていた私は、当時まだ独身で頼る人はなく、突然の宣告に絶望的な気持ちになりました。

 父は手術後徐々に回復し、リハビリの努力で義足をつけてなんとか歩けるようになりました。その後一旦退院したのですが、ある時から原因不明で食欲が消えて食事が全くとれなくなり、体調が日増しに悪くなって再入院。その後も状態は良くならず、点滴だけの生活の中、体力は次第に衰えていきました。

 その頃私の結婚が決まりました。そして結婚後は父と三人で暮らすことになる為、義足の父が快適に過ごせるよう、古い実家の建て替えを決断したのです。住宅メーカーとの打合せでは、父が車椅子の生活でも支障がないよう様々な工夫を一緒に考えました。家は数か月後に新しく生まれ変わり、あとは父の退院を待つばかり。でも父の体調は一向に良くなりませんでした。

 父は私を一人残して逝ってしまうことをすごく心配していて、私の結婚が決まるととても喜んでくれました。私たちは結婚式を企画しましたが、一番の心配は父の健康でした。

 昨年七月、私は先生に相談しました。「九月に結婚式を挙げる予定で式場を予約しているのですが、父が出席できるよう、その日は外出許可を出していただくことは可能でしょうか」。戻ってきたのは「かなり厳しいですね」との返事でした。その二週間後、父の容態が急変してICUに移動となり、いつどうなるかわからないので親戚を呼ぶよう告げられました。

 もう残された時間はないと思った私たちは、急遽入籍しました。そして父に結婚報告をしようと大急ぎで病院に戻ると、看護師さんに「お話があります」と呼ばれ、胸が張り裂けそうになりました。「ああ、間に合わなかった…」。ところが、そこで思いがけないことを言われたのです。 

 「結婚の話を聞きましたが、今は危ない状態なので、お父さんの出席は難しいかもしれません。でももしご迷惑でなければ、お父さんの意識があるうちに病院で結婚式を開かせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。既に実行委員会ができていて、私がその委員長です。準備は全てこちらで行います。あとは娘さんの承諾だけです」。この温かい申し出に私はびっくりすると共に、父に対する皆様の深い愛情を感じました。

 感激のあまり私の目からは大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちました。

 私は結婚式場をキャンセルしました。突然決まった病院での結婚式の日取りはそれからわずか二週間後でした。大慌てで迎えた当日、ウェディングドレスに着替え、看護師さん手作りのブーケを手に会場となったリハビリルームへ向かうと、多くの入院患者さん達が病室から顔を出し、祝福してくれました。そして会場であっと驚く光景を目にしたのです。看護師さんだけでなく、患者さんまでもが手伝ってくれたという部屋の装飾。目の前にはリハビリ用のマットレスを利用して作ったバージンロードが広がっていました。先生のキーボード演奏による結婚行進曲、先生が牧師役となって行った結婚宣言、指輪の交換、カンパによるウェディングケーキへの入刀。更には看護師さん達によるフルート演奏、透析患者会からの手紙や花束贈呈まであり、感激の連続でした。そして私は父への手紙を読み、皆で写真撮影をした後、主人と共に退場となりました。会場の外は、入りきれなかった皆様で溢れかえっていました。この結婚式は私にとって大きな思い出になり、また父にとっても最大のプレゼントになりました。

 父の血圧低下と体力の関係で、結婚式の時間は約一時間でした。その間父は幾度となく血圧や脈拍を測られ、大勢の病院の皆様に見守られる中、父は私たちをそっと見守っていました。たくさんの笑いと感動に包まれた結婚式は、病院初の試みながら大成功のうちに幕を閉じました。この様な親孝行が出来たことは最大の喜びで、皆様に深い感謝の思いでした。

 それから一か月後、父はこの結婚式の模様を胸に母の元へと旅立ちました。今頃は二人で仲良く思い出を語っていると思います。父のために建て替えた新しい家で一緒に暮らすことはできませんでした。けれども父に私の花嫁姿を見せてあげられたことが何より嬉しく、世界に二つとないこの手作りの結婚式に心から満足し、一生忘れることはできません。先生、看護師さん、リハビリスタッフの方々、その他の皆様による企画と実行、結束力、思いやりに感動し、いまだに感謝の気持ちでいっぱいです
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by noripipi2000 | 2013-11-23 10:57